整骨院ってなんであんな院によって違うの?
今や飛ぶ鳥を落とす勢いで増えていく整骨院/接骨院。
2022年には5万件ですって。
今はまた変わってるでしょうが、凄いです。
このように、よく見る整骨院ですが、皆様はお考えになったことはありますでしょうか。
「正直、何が違うん?」
そもそも接骨院行かないから、ンな事は考えたことすらない。
そう言われれば、この話題は幕を下ろすことになります。
まぁ、付き合ってよ。
いくつかの接骨院を通った事がある方は分かると思いますが
やってることは似てたりもするが違ったりすることが多い。
ですよね?
実際私も2つの会社と多数の院で勤務してきましたが、そう感じています。
不思議に感じませんか?
なんでこんな差が生じるのか。
接骨院の先生は時代で多少の違いはあれど、専門学校で学ぶことの内容には変化があまりありません。
なのに院毎でなぜこんなにも行う施術内容が変わるのでしょうか?
推察の域を出ませんが、私はルーツ的なところ法制度、あとは政治的なもんなんかな?
そういった関係が今の差を生んでると思っています。
誰が興味あるんだ。そんな業界の内々の話。
まぁ、そういわずに付き合ってくださいよ~。
「なんで違うのか」は、知ってて損はないと思うんですよ。
知見はあればあるほど世界が広がるし、理解が深まる。
コーヒー片手にソシャゲもいいですが、与太話も悪くないですよ。ね?
時代的背景
我々接骨院の先生は「柔道整復師」という国家資格です。
決して「整体師」じゃないですよ!
間違ったらちょっと機嫌悪くなりますからね!
さてそんな柔道整復師が行う技術を「柔道整復術」といったりするのですが、
名前から「柔道」にルーツがあると思われますが実はちょっとだけ違うんですよね。
少し歴史のお話です。大河ドラマです。
昔は戦だらけの世界。
人をぶん投げるのも戦の技術です。
取っ組みあって投げて。とどめを刺す。
こういった、人を殺める為の技術を殺法といいました。
反して、戦場で骨折した。捻挫した。
そのような方に対して固定したり、止血したりという技術もありました。
人を助ける為の技術。これを活法といいました。
面白いことに、これらの技術は様々な型や思想がありました。
俗にいう「流派」たるものですね。
あれですね。飛天御剣流とか陸奥圓明流とか。
そんな感じです。
この流派ですが、現代の様にネットワークがある訳でもない時代。
各々が独自の進化をしていくんですよね。
現代的にいうなら、ガラパゴス化に近いと思います。
しかも、時代も相まってその技術は大っぴらには広めてない。
門下生にしか伝えない弟子制度であったり、一子相伝の技術となっていくんですよね。
技術の漏洩が一族の衰退を招く可能性のある時代ですから。
己の身を守るための判断でしょう。
しかし、嘉納治五郎という偉人が出てきまして。
このお方がバラバラだったこれらの技術を体系化したり、教育として構築します。
これが今の『柔道』の元祖なんです。
このおかげもありまして、私たち柔道整復師という仕事の礎が出来てます。
競技としても、学問としても柔道が出来ました。
しかし、元はバラバラだった流派たち。
まとめられるとそりゃ大変な訳です。
似通ったとこはあるが、違うとこもある。
各々の思想が違いますからね。
まとめはしたけど、微妙にやり方違うよね?
こういった背景も違いの一つなのではと考えます。
教育の手法と法制度
現状、柔道整復師になるには専門課程を踏むことが必須です。
ようは学校行けってことですね。
しかし、ここでの教育内容は「最低限の共通項」という立ち位置に感じています。
基礎医学と柔道整復学。大まかにこの二つです。
基礎医学はイメージしやすいですが、柔道整復学とは何ぞや。
まぁ、活法の基礎ですね。
骨折の治し方や、脱臼の治し方。
その辺の基礎です。
しかし、これって教科書なんで絶対的方法じゃないんですよ。
やり方は問わん。けどこうなってるよ?こういう方法あるよ?くらいの内容です。
なんでこうなったのかを考えてみました。
恐らくですが「縛れなかった」のじゃないかな?と思います。
現代医療って
研究して→標準化して→ガイドライン制定
というルートが多いはずです。
土台があるんですよね。
しかし、我々の技術は
経験→伝承→分岐(流派化)
このルートで発展してきたと思うんですよね。
今でいうと「先人の教え」という土台です。
これ土台としては信用したいですが、裏付けとして弱いですよね。
だからあえて自由にした。技術を守るために。
全てを統一してしまえば、なくなるものもあるから。
最低限、この知識は持っとけ。と知識は共有し、あとは現場の流派に合わせる。
この結果、自由が生まれた。これがばらつきの1要因なのではないかと。
政治的背景
柔道整復師法という法律があります。
これしちゃだめよー。という感じですね。
これって法を作ることで、ある目的を目指してたんじゃないかと思うんですよね。
- 既に存在していた「ほねつぎ」を整理する
- 職業として認める
- 最低限の安全性を担保する
こういった事を目的としていたんじゃないかな?
と思います。
要は立ち位置を確保したかったんじゃないかと。
でも世にはお医者様という仕事があります。
この辺はややこしいので割愛ですが、そこんとことうまく折り合いつけるためにごにょごにょした結果今の状態に落ち着いたのだろうと考えます。
ガチガチに縛るというより、含みを持たせた余白のある内容になったんですよね。
結果として
こういった背景から自由性が生まれたのかと。
各々の現場の技術が独自に発展していったのだと思います。
同じ技術でも解釈が違ったりしますからね。
ホントややこしい。
しかし、この解釈も私の解釈。
もっと賢い方が論じれば「それは違うよ」と意見もでてきます。
いつだってこういった議論は新たな知見となります。
知っている方がおられたら教えていただきたいもんです。
私の流派?
ほとんど教科書に載ってることしかしません。笑
教科書流。奥義!!36ページに記載!!!
「いやいやwなんかあるでしょ?凄いテクニックみたいなの」
教科書舐めたらいけんぜよ。
現代に残る技術なんて、長い歴史で淘汰された技術しかないです。
本質はココにあると思っています。
あえて、名前をつけるなら師事してる先生の名字を勝手に借りて名乗りましょうか。
怒られそうなのでやめときます。
虎の威を借る狐は虎に食われます。
さて思想続きなので己の思想も書いておきましょう。
ちょっと物騒な物言いでごめんなさい。
個人的にですが
施術を行う際に私は「治そう」と考えていません。
「は?」
話を聞いて。
「治したい」とはおもてますよ!?
私は超能力者じゃありません。
手をかざしたら治りまっす!
とかできないんです。
傷が出来たら止血する。
骨が折れたら戻して固定する。
こういった具合に処置をするんですよね。
身体に「治ってもらうため」に。
そう、自己治癒力を最大限に活かすんですよ。
最初に言いましたね。活法ですよ。
これは『活かす方法』なんですよ。
正しく治るための下準備。環境作り。
場合によっては、それが即自的な効果を発するだけです。
決して私が治してる訳じゃないんですよね。
思いあがって鼻伸ばしてちゃ痛い目見ちゃうよ。
治るためのきっかけ作りだったり、治るためのレールを敷いたり。
この構築と再現するための手法や思考こそ、この仕事の本質であり、難しいところだと思っています。
だから、私は私のやれることを無駄なく正確に行う。
職人っぽくていいでしょ?
この仕事はかっこいいです。
だからこそ、ちゃんと治したい人にはちゃんと向き合いたいと思っています。
実際に、
「どこ行っても同じに感じた」
「何されてるか分からなかった」
そういう方が来られることは多いです。
もし同じように感じているなら、一度くらいは試してみてもいいかもしれません。
合うかどうかは分かりませんが、誠心誠意説明は行います。

